アート&カルチャー
2025.02.03
昨年、開廊からわずか1年余りで、中国で開催された3つのアートフェアに参加したEmpathy Gallery(東京・原宿)。今や世界第2位の市場シェアを誇る中国と、日本人若手アーティストを繋ぐ同ギャラリーの尚雅南代表に、活況を呈する中国のアート市場の最前線について伺った。
(聞き手・文=住友優太)
ー尚さんは中国・北京のご出身ですが、日本に来られた経緯をお聞かせいただけますか。
まず家庭環境ですが、両親は改革開放期に仕事を辞め、新たに事業を立ち上げたため、多忙な日々を送っていました。私が学校から帰っても家には誰もおらず、テーブルの上に置かれたお金を持って、ひとりで外食するような毎日で、家族と過ごす時間はほとんどありませんでした。
小学生の頃は成績は良かったものの、郊外の全寮制の中学校に入学してからは勉強する意味が分からなくなり、次第に落ちこぼれてしまったんです。そして、中高一貫校だったにもかかわらず、高校に進学できなかったんですよ。結局、北京市内の一般の高校に通うことになりましたが、環境にうまく馴染めず、大学受験にも失敗してしまいました。それから半年ほど親の仕事を手伝っていたんですが、「もうすぐ成人になるのに、このままでは社会に取り残される」と心配した両親の勧めで、19歳のときに母方の叔父が住む神戸に渡ることにしたんです。当時はインターネットも普及しておらず、日本についての情報源といえばアニメや漫画だけでした。だから『Dr.スランプ アラレちゃん』のような世界が、日本では本当に存在しているんだろうなと本気で思っていました(笑)。
ーそうだったんですね。来日後はどのような道を歩まれたのでしょうか。
日本語が話せなかったため、最初の2年間は日本語学校に通いました。日本語学校時代、学校から奨学金を頂き、まじめに勉強することで認められる達成感を味わい、一生懸命勉強しました。そして、大学と大学院で計6年間学んだ際も、幸運にも日本文部科学省の奨学金を頂くことができました。これらの支援のおかげで学びを深めることができた今、日本への恩返しとして、自分の経験や知識を活かし、社会に貢献していきたいと考えています。
その後は、2010年4月にカルチュア・コンビニエンス・クラブ(以下、CCC)に初の中国人社員として入社しました。当時はちょうど「代官山プロジェクト(代官山 蔦屋書店を中核とした、ライフスタイル提案型複合文化施設の開発計画)」が本格的に動き始めていた時期で、CCCはそれまで外国人採用を行っていませんでしたが、外国人視点でのブランディングや将来のグローバル展開を見据え、中国語が話せる人材を必要としていたんですね。現在、「代官山 蔦屋書店」のオープンからすでに13年が経ちますが、今や日本のクリエイティブ文化の発信拠点として確固たる地位を築き、多くの外国人観光客にも親しまれています。当初の構想は見事に実現されたといえるでしょう。
ー具体的にはどのような業務を担当されていたのですか。
最初は「代官山プロジェクト」のチームに配属され、商圏調査をはじめとする基本的なスキルを一から学びました。その後、出店開発部に異動し、海外戦略の第一歩として台湾市場のリサーチに従事することとなり、月の半分以上を台湾で過ごしながら、現地企業との提携や市場分析に取り組みました。
特に印象に残っているのは、台湾最大手の書店への営業活動や、CCCの初海外M&A案件で、台湾CMC(中環集団)への資本業務提携を実現させたことですね。その過程で、通訳として経営陣と深く関わりながら、貴重な現場経験を積み、大きく成長することができました。これもひとえに、上司や増田宗昭社長(現:会長)をはじめとする経営陣の温かいサポートのおかげであり、CCCには心から感謝しています。
ーそこからどのようにして独立に至ったのですか。
その後、1年間の上海勤務を経て東京へ戻り、日本国内のファミリーマート社に出向し、Tポイントの営業業務を経験した後、2015年10月からは中国関連の案件で増田社長のもとで働くようになりました。2015年から2018年にかけて、CCCの中国事業に深く関わりました。私にとって増田社長は「日本のお父さん」のような存在で、その姿に強く影響を受けました。そして、情熱をもって全力で仕事に打ち込み、「やり切った」と感じた2018年末に退職を決意し、2019年1月1日に日本人デザイナーを中国のクライアントとつなぐクリエイティブ関連の事業を立ち上げ、独立したんです。
この時、私のパートナーとなったのは、「銀座 蔦屋書店」のデザインを手掛けた呉勝人さんです。ちょうど呉さんもデザイン事務所から独立したばかりということもあり、すぐに意気投合したんです。CCC時代の中国勤務で培った人脈を活かし、呉さんにデザイン案件を紹介し、契約の締結、進行管理、翻訳・通訳など、デザイン以外の業務全般を担当しました。
ーそうだったんですね。その後の事業展開はいかがでしたか。
独立した2019年から2021年までの3年間は、中国経済の好調も追い風となり、幸いにも多くのプロジェクトを任せていただきました。特に大きな転機となったのが、総面積12.000㎡におよぶ中国・南京の個人美術館「DEJI Art Museum」のリノベーションプロジェクトです。この成功を機に、40.000㎡規模の商業施設や高級別荘のデザイン案件といった、さらなる大規模プロジェクトの依頼が相次ぎ、事業の幅を大きく広げることができました。
また、当初の予想をはるかに上回る案件量に対応するため、呉さんに加え、世界的に活躍する著名なデザイナーや建築事務所とも連携を強化し、クリエイティブ分野における確固たるパートナーシップを構築しました。
ーすごいですね。2020年から新型コロナウイルスが流行しましたが、その影響はいかがでしたか。
2020年の前半は中国への渡航が制限される状況となりましたが、DEJI Art Museumのオーナーの依頼を受け、日本の若手アーティストの作品購入をサポートしていました。具体的には、国内のさまざまなギャラリーを巡り、展示作品の写真を撮影し、翻訳したアーティストのプロフィールとともに提案書を作成・共有。そしてオーナーが気に入った作品を購入するというプロセスを繰り返しました。
その結果、2020年は年間を通して総額2億6000万円にのぼる現代アート作品の購入を実現しました。私はその過程でアート市場の可能性を強く感じるようになり、2021年の年末には現代アートの事業化を本格的に進めることを決意しました。そして、2022年はアート市場が空前の盛り上がりを見せる中で猛勉強に励んだ一年となりました。
ーそれがEmpathy Galleryのオープンにつながっていくんですね。
そうですね。中国のアート市場が持つポテンシャルに大きな魅力を感じ、自らの手で才能あるアーティストを世に送り出したいという強い想いから、2022年の年末にギャラリー設立を決意しました。
物件探しは予想以上に難航しましたが、往来の多い原宿通りに面した新築の総面積118㎡のこの物件を見つけたときは、「何が何でもやり遂げる」という覚悟を新たにし、2023年9月30日に念願のギャラリーをオープンするに至りました。
ーギャラリーオープン以来、非常に短いスパンで企画展を開催され続けてらっしゃいますが、企画や進行管理はどのようにされていますか。
ギャラリーはほぼ一人で経営しています。すでに2025年のスケジュールもほとんど決まっており、1月17日開幕の矢部裕輔さんの個展を皮切りに、年末までに計17回の企画展を開催する予定です。オープン当初は所属アーティストがいないので、有望なアーティストを見つけ、積極的に声を掛けていくんですが、元々ディーラーとして活動していたため、他ギャラリーとの接点がすでにあるわけですよ。そのため、「このアーティストにアプローチするには、誰を通すのが最適か」といった業界特有のノウハウは持っていましたし、一人で考えるよりも定期的に業界の先輩方と意見交換する方が実践的で有意義だと考えています。
さらに、当ギャラリーは国内市場ではなく中国や東南アジアをメインターゲットとし、中国語を話すコレクターに向けて、日本人アーティストの作品を発信しているため、他のギャラリーとは戦うフィールドが異なります。つまり、国内の他のギャラリーとは良好な協調関係を維持しながら、すでに他のギャラリーに所属している優れたアーティストの作品を展示することも可能なんです。
当ギャラリーで展示するメリットとしては、業界のルールに則った代理販売で異なる市場へアプローチできること、さらに中国市場からのフィードバックを直接得られることなどが挙げられますが、何よりも重要なのはやはり作品の売上です。実際、この住吉明子さんの個展(取材日:2024年12月24日)では、最初の3日間で半数以上の作品が売約されました。(続く)
【後編の主な内容】
・中国のアート市場の高い熱量
・若手コレクターが台頭する中国市場
・人生を懸けて臨む「日本への恩返し」
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