アート&カルチャー
2024.04.26
書道と絵を組み合わせた「書道アート」という新たなジャンルを生み出し、世界的に活躍する書道アーティストの原愛梨さん。書道の固定観念を覆し、絶えず未知の可能性を探求し続ける原さんに、波乱に満ちた半生を振り返っていただきました。
〈聞き手・文=住友優太〉
―まず書道との出会いについてお聞きしたいんですが、おいくつから始められたんですか?
2歳ですね。3つ上の姉が書道をやってて、それを真似して始めたのがきっかけです。
―2歳って言葉を話し始めて間もないくらいですよね。当時の一番古い記憶はどういったものですか?
書くたびに書道教室の先生が褒めてくれていた記憶ですね。
―2歳から書道教室に通われていたんですか?
通ってましたね。お姉ちゃんと2人で。
―書道に熱心なご家庭だったんですか?
いや、特にそういうわけではないんですけど、とにかく「やり始めたら絶対一番を取らないと許さないぞ」っていう家庭でしたね。書道以外の何に対してもそうなんですけど、「やるんだったら本気でやりなさいよ」みたいな感じで、お母さんにも付きっきりで教えてもらっていました。
―通っていたのは一般的な書道教室でしたか?
そうです。家から車で5分ぐらいの書道教室ですね。そこに朝5時から通ってて、小学校6年間の夏休みは毎日朝5時から夕方までずっと書いてましたね。
―すごいですね(笑)朝5時からやってる書道教室がご近所にあったんですね。
いや、「開けてー!」ってピンポンを鳴らしに行くんですよ(笑)
おじいちゃんとおばあちゃんの2人が先生なんですけど、私のために朝5時から教室を開けてくれてましたね。何事も一番じゃないといけないから、書道教室に行くのも一番早くないといけないっていう。
―朝5時ってかなり早起きですね。
いや、もう起こされます(笑)
お母さんに抱きかかえられながら連れていかれていました。
―振り返ってみてどうですか?大変でしたか?
ずっと最初からそうだったのでそれが当たり前になっていて、特に大変っていう感覚はあまりなく「これは義務なんだ」みたいに思っていましたね。お姉ちゃんも一緒だったので。
―どのような子供でしたか?
活発だったと思います。活発でイタズラ好きな…アホです(笑)
―どれくらい書道に打ち込んでらっしゃったんですか?
平日は「5時までには学校から帰ってきなさい」って門限が決められていたので、毎日5時までに帰ってきて、そしたら書道道具が既に準備されているので、お母さんが帰ってくる夜10時ぐらいまでひたすら書いていました。他にピアノとかもやってたんですけど、お母さんが帰ってきたら「さあどれだけ書いて、どれだけピアノ弾けるようになった!?」って全部見せないといけないんですよ(笑)
―書道の練習って具体的にどういったことをされるんですか?
お手本があって、そのお手本にいかに近づけるか、お手本より上手に書けるかを目指して、もうひたすら色んな字の書き方を体に叩きこんでいきました。
―その日の成果を披露する時、お母さんの反応はどうでしたか?
お母さんが褒めてくれることはあまりないですね。基本ガンガン叩かれ、蹴られ、怒られながら書いてるんで(笑)
お母さんとお父さんが夜10時くらいに帰ってきて、そこから一緒に晩ご飯を食べるのがルーティーンでした。
―子供の頃の将来の夢はなにかありましたか?
小学校4年生の時の文集には「習字が上手な有名人になりたいな」って書いてました。
―そうなんですね。その「習字(書道)が上手な有名人」を目指すきっかけはなんだったんですか?
やっぱり小さい時から書道だけをやってて、いろんな賞で本当にずっと「一番」を受賞してきていたので、書道はずっと続けたいって思っていましたし、人前に出るのも好きでしたね。小学校だったら学級委員とかあるじゃないですか、そういう風に学校をまとめたりするのがすごく好きでした。
あとは書道をやっている人っていうと、大体おじいちゃんとかおばあちゃんのイメージをみなさん持つと思うんですけど、みんなに「若いのにすごいね」って言われていたから、この若さを生かして「もっと書道をメジャーなものにしていきたい」っていう気持ちはありましたね。
―小学生時代の愛梨さんにとって、書道はどのような存在でしたか?
唯一自分のことを肯定してくれる存在でしたね。勉強できないし、授業中もよく怒られるんですけど、文字書いたら褒められる。成績もすごい悪いけど、大体教室に貼られてる学級目標とか掲示板の文字はすべて私が任されて書いていたので「勉強できなくてもこれできるからいいもん」みたいに思っていましたね。
―幼少期から小学生時代を通して特に印象に残っている出来事はありますか?
そうですね…。友達と遊んだ記憶は全然なくて、ただひたすら書いてたんですよね。その中でも小学3年生、8歳の時に受賞した文部科学大臣賞は、最年少での受賞ということもあって大きな自信に繋がりました。
―続いて、学生時代に進んでいきます。これまでは順風満帆な書道人生のように思うのですが、挫折経験のようなものはありましたか?
高校3年生の最後の書道の大会で「全体の最高賞を絶対に受賞しよう」と思って書いていたんですけど、本番中に極度の緊張から頭と腕がバラバラのようになってしまい、全く思うような字が書けなくて…。それでショックを受けて「書道をやめたい」って初めてその時思いました。本当にどん底の状態でしたね。
―その挫折から立ち直るまでの葛藤についてお伺いしてもよろしいですか?
その大会の課題は「かな文字」だったんですけど、それ以来かな文字用の小筆を持ったら恐怖で震えて書けなくなったんです。大筆では全然書けるんですけど。
そんなことがあったので「書道やめたい」ってお母さんに伝えたんですよ。そしたら「今回は結果がついてこなかったけど、あなたにはこれまで努力してきた経験がついてるから大丈夫」って言ってくれて、それがすごい励みになって「書道はやっぱりずっと続けたい」と思ったので書道専攻のある大学に進学したんです。そして大学2年生の時に大会でもう一度「かな文字」に挑戦したんですけど、そしたら最高賞を受賞してようやく自信を取り戻すことができました。その時は「書道をやめずに続けてきて本当によかった」って心の底から思いましたね。
―数年間にわたった大きな挫折を通して、書道への向き合い方や意識の面で何か変化はありましたか?
それまでは結果にこだわりすぎていたけど「書き続けてきた今までの経験は無駄じゃなかったんだ」って思いましたし、今となっては「結果よりも完成した作品が誰かに伝わった瞬間が一番嬉しい」と感じるようになりました。
―書道専攻がある大学へ進学されていますが、どのようにして決められたんですか?
書道の大学に行きたいとは前から思っていたんですよね。あとは「九州から出ちゃ駄目。常に家で書きなさい」と言われていたのと、九州で書道専攻がある国立大学は福岡教育大学しかなかったので一択でした。
―ということは実家からは遠いんですか?
遠いです。実家からだと片道2時間以上はかかります。でも「週末必ず帰ってくるなら寮でもいいよ」ってなって結局寮生活や1人暮らしもできましたね。もちろん週末は実家に帰って作品を親に見せてました。
―書道専攻の大学というと、座学の授業もありますよね。
はい。座学もあったり、歴史も学んだり、教育大学なので教員免許も取れましたね。
―受験勉強はされたんですか?
書道の推薦で入りました。
―大学時代って就職を意識すると思うんですけど、将来についてはどのように考えていましたか?
ずっと書道家になりたいと思っていましたね。高校の時に「私書道家になりたい」って先生に言ったら「なにバカ言ってんのよ。そんなのなれるわけないんだから、とりあえずあなたは書道専攻のある大学でいいから行きなさい」って大反対されて、やっぱり大学に進学しないといけないんだなって思って書道専攻のある大学に入学したんですけど、大学卒業の年に親に「書道家になります」って伝えたら「バカ言え、就職しなさい」といわれたので銀行に就職しました(笑)
―大学4年間は一貫して「書道家になりたい」と思われていたんですか?
そうですね。周りはみんな教員になりたいって言っていたんですけど、私は教員には全然なりたくなくて、純粋に書道の技術を磨きたいと思っていましたね。
―学生時代を通して最も印象に残っているエピソードはなんですか?
やっぱり高校3年生の時の挫折ですね。朝も早く来て休み時間や放課後も残ってずっと書いていて、先生をはじめ色んな人から「絶対一番を取れる」って太鼓判を押されていたので、「一番が取れなかった悔しさ」を強く覚えていますね。そしてただ悔しかっただけじゃなく、この挫折経験を糧に成長することができたのもあってすごく印象深いです。
―親に「就職しなさい」と言われて銀行に就職されたということですが、なぜ銀行を選ばれたんですか?
お姉ちゃんとお母さんが元々銀行員をやっていたので。でもお母さんやお姉ちゃんと同じ銀行はコネで入ったとか思われたくないから「絶対嫌だ」って反発して、結局違う銀行に就職しましたね。
―実際に社会人になってみるとどうでしたか?
本当に仕事ができなかったんですよ。なので銀行で毎日同じような仕事をやっていく中で「どうにかして書道を生かそう」ってずっと考えていました。仕事はできないけど「なにか人の役に立ちたい」、「人に褒められたい」っていう気持ちがあったので「今まで自分を肯定してくれた書道を生かしたい」と思ったんです。
そこで銀行員時代は宛名書きをさせてもらってましたね。普通の銀行って封筒に宛先のシールを貼って発送するんですけど、それを全部筆で書くっていう仕事を上司に任せてもらい、会議室で1人黙々と何百通もの封筒に住所と名前を書いていました。
―入社時から書道をアピールしていたんですか?
一応アピールはしていましたね。でも入社して最初の数ヶ月間は書道なんてもってのほかじゃないですか。仕事を早く覚えようと一生懸命やってたんですけど、毎日なにかミスをやらかすから「爆弾」ってあだ名をつけられたんですよ(笑)
でもその爆弾を何かに活用できないかって上司が考えてくれたことで、書道を生かした業務を任せていただけました。
―社会人になると忙しくなってくると思うんですけど、書道との向き合い方に変化はありましたか?
ありましたね。筆で宛名書きをしたり、口座作ってくれたお客さんにお手紙を出したりしていたんですけど、それを読んだお客さんが「あなたに会いに来たよ」って喜んで来てくれたり、「あなたのところでお金を預けたい」と言ってくれる人が増えて、書道を通してこんなに想いって人に伝えられるんだと初めて気がつきました。今までは一番を取ることにこだわりすぎて「いかに上手く書くか」にばかり重点を置いてきたんですけど、銀行員時代から「いかに人に想いを届けるか」って方向に気持ちが変わりましたね。
―お仕事をしている時はどういうモチベーションだったんですか?
朝は毎日マックスまでボルテージを上げて「今日も頑張るぞ」ってニッコニコで職場に向かうんですけど、それがズタボロになって帰ってきていましたね。何事も寝たら忘れるタイプで、次の日も「よし今日も頑張るぞ」とはなるんですけど、毎日何かしら失敗して怒られて怒られて怒られて、最後にはボロボロになって帰るっていうスタイルでしたね(笑)
―具体的にどんなミスをするんですか?
いろいろあるんですけど、たとえば大事な書類をシュレッダーにかけて2日がかりで繋ぎ合わせるとか。あとは「番号札回収してきて」っていわれて、発券機の回収ボタンを押したらお客さんが今日何人来たっていうデータが出るんですけど、番号札を回収してきてって言われたので、番号札って取るとまた出るじゃないですか。それを延々引き続けて持ちきれなくなった大量の紙を持っていって「お前何やってんの」と怒られたり、お釣り返し忘れてお客さんを追いかけて外に出て車を追いかけていったりとか、毎日そんな感じでした(笑)
〈後編へ続く〉
1993年10月2日生まれ、福岡県出身。
2歳から書道を始め、幼少期から数々の賞を受賞。
書道家として活動を始めてからは文字を絵で書くという新しいスタイルの書道のジャンルを確立。
SNSから話題となった作品は様々なテレビ番組で紹介され、注目を集める。
名前、ことわざ、名言などの言葉を自由な発想で表現し、言葉に宿る魂を表す独自の世界観の作品が特徴。
東京の神田明神で開催された個展では著名人も含め多くの来場者を集めた。
Art Expo New YorkではBest Solo Exhibitorを受賞し、本場ニューヨークでも迫力と繊細の両方を併せ持つ作品は高い評価を受けた。またパリ、ドバイ、インドネシア、シンガポールなど各国で展示やパフォーマンスを成功させた。
日本の文化である書道を世界に広め、更に進化させるため、世界中で活躍するアーティスト。
■「書道」最年少文部科学大臣賞受賞
■「書道」日中友好書道大会日本代表
■「原愛梨書作展」福岡市美術館
■ 2022年5月 「零-はじまり」 SPAGHETTI,表参道,東京
■ 2023年3月 「礎」神田明神,東京
■ 2023年3月 Art Expo New York, New York (Best Solo Exhibitor 受賞)
■ 2023年10月 Salon Art Shopping Paris, Paris
■ 2024年5月 World Art Dubai, Dubai
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〒106-0032
東京都港区六本木5丁目1−3 ゴトウビルディング1st 1階
営業時間
11:00~19:00
休廊日:毎週水曜日
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